昭和52年12月01日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出てみよ。空が神、下が神。」
神様に会おうと思えば、にわの口を外へ出てみよと。もうそこには天地そのものがある。神様の姿だとこう言っておられます。だから神に会うたというだけではつまりません。ああなるほどそうかなと言うたり、思うたりしただけでは、その神様との交流を図るという事が信心です。ためにはやはり拝まなければいけません。私毎朝三時半には、ここの庭にでます。そして天を拝し地を拝します。言うなら天地人を拝みます。人はもちろん金光様又は、天皇陛下にご挨拶をさしてもらいます。
そこから金光様と通うそこから天皇陛下と通い、そこから天地との交流を段々、深くしかも強く感じれれるようになってまいります。はあ天地が神様かとこう分かっただけでは、会うただけではつまりません。会うたその神様との交流、それが御道の信心なんです。そこで今日私は思うのですけれども、会うだけではなくて、その神様を知ると言う事。その神様を知ることの精進。まあここでは今親の心を分かるという。
親神様の思いが分かる。なるほど親神様じゃなと分かれば分かるほど、縋らずにはおられんという願いの信心が、自然出てくる。だからなるほど親様じゃなあ、なるほど神様じゃなと。それをいよいよ会うだけではなくて知るためにね。だから神を知りたいなら、成り行きそのものを大切にせよ。自然に起きてくる様々な現象もそうですけれども、自分の上に起きてくる様々な難儀だけではないですけれども、起きてくる、様々な問題事柄神を知りたいと思うたら、いよいよ成り行きを大切にしてみよ。
そこに神の働きを知ることが出来るという風にも頂けると思うですね。御理解十三節です。次の十三節には、「神は向こう倍力の徳を授ける」とあります。神様に会うた。神様を知ったというだけではつまらん。その神様のいうならばご信用を頂く。その神様の働きを神様の働きと知り、その働きに応えて精進して行く。成り行きを大事にすると言う事は、その精進の第一だと私は思います。神に向かうと言う事は、そう言う事だと思う。神様を言うなら柏手して拝むと言う事も、神様へ向うことなんですけれどもね。
向こうて進んでいく、向こうて近付いていくと言う事は、いわば教えを行ずると言う事であると言う事と同時に、神様をいよいよ神様の働きを知ったら、その神様の働きをね。自分の全身全霊で受け止めて行く所の生き方を、いよいよ密にして行くと言う事が、神に向かうと言う事であり、神に向こうて近付いていくと言う事である。中々近付かない。近付く為にはどうしてもまあいうなら、難儀というものの自覚というか、実感というかまたは屑の子われの自覚と言う様なものが。
段々出来てこなければその神様へ、なかなか向かわれん。難儀そこにめぐりを感ずる。成程めぐりが深いなとね。本当にこのめぐりの性がこの難儀という事になってくるのですから、その難儀が言うなら難儀性と言う事を申しますですね。難儀性です。を私共が実感するようになればなるほど、神様に近づかなければおられなくなってくるのです。また近付き良いのです。そうでしょう皆さんがそこに難儀を感ずる。お願いせんならん事があるから、お参りをするのでしょう。
そしてそれはどうでもという願いが立てられるところから、ならこちらもどうでもという姿勢を作る姿が、朝参りの修行であったり、様々に取り組む修行と言う事に、本気で修行をしようという気になるのです。難儀を感ずるから、神様に近づき良いのです。あるとき私椛目の時代でしたけれども、お知らせをある方が参ってきた。私はもう控えに控えておった。ちょうど冬の事ですから、あの火鉢を前において座っておりました。そしたらそこに茶布巾の濡れたのがあった。
そしてその茶布巾の濡れたのを、私がこの火にかざして、こうその方に見せて説明をし、理解付けをさせて頂いた。これがどうだろうこのぐるぐるおこっている炭火ですけれども、火に乾いた例えば布巾を持ってきたら、もうその場で持ってたらもうぼうっと燃え上がってしまう。ところが濡れておるから火のそばへ持っていっても、燃え上がりもしないし熱くもない。だから濡れておる自覚。いうならば自分は、こういう巡りを持っておるという自覚。そこに難儀がある。
その難儀だからこそ神様に、いよいよ人が近付けん様な所まで、近付いていけれるんだよという御理解を頂いた事があるんです。段々分かってくると自分が分かる。自分が分かってくると成程、巡りの深い自分である事が分かって来るでしょう。だからそこには願わずにはおられん、すがらずにはおれないと言う事にもなってくるし、いよいよ神様に接近することが出来るのです。不思議に信心がその熱度が加わってくると、もう出来るだけ例えばお広前でも、前にでろう前に出ろうとする気持ちが起こってくるです。
もう押し退けてでん行こうとする気がするです。神様へそがしこいうならば、近付くわけです。昨日は研修の時に、その事も話したことでしたけれども、もうお広前のすうみの方からでも良かちいう時にはもういよいよ、信心がもう落ちだしたときです。そげなこつ知っとるなら、今日後ろのほうへ座ってござらしたが、と言う事にもなるけれども。確かにそうです。あのですからそのためには、ならこうこ押し分けちから。
前さん行くわけにはいかんから、前に座るためにそれだけ早く参ってくると言う事に、そういう熱意が出てくるわけです。もう拝みさえすりゃ良い。御理解に間に合いさえすりゃいい。御祈念に間に合いさえすりゃ良いと言ったようなもんじゃなくて、そこに五分でも十分でも、なら人よりも早く出てくる。そして前のほうへ行って、もう神様の一番そばで御祈念をしたいような心起こってくるです。ようにですなら私どもがめぐりの自覚が出来てくるとね。言うなら神様に接近しよいわけです。
神様にいよいよ向こうていく。そしていよいよ自分を知る。いよいよ神様に接近せずにはおられない。そうして向こうていくそういう働きの倍力の徳を授けると仰るのです。そういう、熱意に対してです、神様はその倍力の徳を授ける。その倍力の徳というか、そのお徳御神徳を頂いて、初めて人間の幸せ人間の幸福。しかもあの世この世を通しての、幸せの道がはっきりしてくるんです。その信心もそこまで行かなければ、拝みよります時々は参りよります。
お取次ぎを頂いておかげを頂きますというだけでは駄目だという事。それにはまず神に会おうと思えば。にわの口を外へ出てみよ。空が神下が神という。それを何が神様か何が仏その天が神地が神じゃろかと言うたら、それまでの事。なるほど天地の中には本当に、それこそ私共の言葉では、表現出来ぬような素晴らしいエネルギーがある。そのエネルギーによって、いうならば小地球ですよね。
天地から言うたら小さい小さい星の一つにしか過ぎないこの地球上の上にも、生きとし生けるものの上に、もうありとあらゆるものの上に、天地の親神様のそのエネルギーによるところの、恩恵を受けてないというものは一つもない。その理屈が分かってくると、なるほど天が神様だ地が神様だと言う事も分る。なるほど空を仰げば柏手の一つも打たねばおられない心が生まれてくるのだ。
そこから言うなら神様を私共が対象として拝んでおる神様を、そういう偉大な神様であると言う事が分かったら、今度はその神様を知る必要がある。そこで私共がその神様に、いよいよ近付かせて頂く一つの手立てとして成り行き。神様の成り行きそのものが、神様の働きなのだから降ることも照ることも、もちろんほんなら自分の上に起きてくる、様々な事柄も全部自然の神様の働きである。だからそれを合掌して受けていこうと言う所から、いよいよ神を知ることが出来る。
どういう風に知ることが出来るかというと自然界には。もう何が何でも、千年億年かかっても、丸をせずにはおかんと言う働きがある事が分かってくる。成り行きを大切にさして頂きよると、自分の心が丸うなってくる。有難うなって来る。いよいよ成り行きを尊ばなければおられない。神を尊ぶと言う事は、成り行きを尊ぶ事だと言う様な事が分かってくる。そしてなるほど神様じゃなあ、親神様じゃなと言う事が分かってくるんです。そういう思いでいよいよ神様に接近して行く。
近付いていく。その手立てをです自分の信心が本当なもんじゃないなと言う事が分かって来る。自分というものがこんなにもいうならば、お粗末御無礼な私であると言う事が分かると同時に。自分の信心のいい加減なところが分かってくる。真の信心真の道と言われるけれども、果たしてどれだけ真の人になり、真の信心をさせてもらい、真の道をふんまえての日々であるかと言うようなことが、段々厳密に反省されるようになるところから、これではならじという心が生まれてくる。
昨夜は月の最後の日ですから、月末御礼信話会が、まあ何時も開かれます。そして昨日、皆さんにもう本当にもう、合楽教会のごと評判の悪い教会はなかて、もう日本一じゃろと私が言うた。はっははもう本当に、もう合楽への帰依者というかね。合楽ファンの方の、一部の方達だけがです。もう合楽は余裕で日本一とこういうわけです。はあ親先生は、神様んごたる人とこういうわけなんです。それはほんの一部の人なんです。合楽にご縁を頂いて、そしておかげを頂いておる人達だけがそうなんです。
一度合楽の味を分かると、みんなそうである。昨日もちょうど研修の前に、こう現金封筒が送ってきた。先日からお話をした、姫路の中山さんていう方。こちらのご親戚に来ておる間に五日間お参りをした。大体はその親戚のその、倉本さんという方。ほんでとにかく、あんたそんな難儀を抱えておるのだから、一遍私が参りよるところへ連れてまいるから、参りなさいと言うて、まあ無理に連れて参ってこられた。話を聞いた。あくる日も参ってきたあくる日も参ってきた、またあくる日も参ってきた。
そして帰る日まで五日間、毎日参ってきた。そしてこれから何かお商売させて頂かんならん。ラーメン屋を開きたい。そのラーメン屋の屋号も頂いて帰った。嫁後が蒸発してどこにおるやら分からない。4年生になる孫が、もうそれこそあらゆる手立てもしたけれども、寝小便が止まらない。そういう難儀なお願いをして、帰りに色紙を持ってきて、ここに何か私の信心の目当てになるものを書いてくれというから、私が薫るという字を書いてやった。草冠に重いと書いて点々心である。
自然そのものが神様の働きなのだから。自然を成り行きをいよいよ、大事にしていきなさいよ。成り行きを重んじていきなさいよと。草冠を重んずる自然を重んずる。その心に薫るようなおかげにもなってくるよと言うのですから、もうそれをもう一つ覚えのように、一生懸命守らせて頂いて、一月余り後に電話が掛って来た時には、もう帰って御神米を頂かせた、そのあくる日から孫が寝小便をせんようになった。
十日あまりしてからラーメン屋を開いて、ここで頂いた八女の方ですからやつめと言う、やつめラーメンというのをしたら、大変評判になって段々こう繁盛してきておると言う事。でその電話の掛って来た朝、「親先生、今朝おかげを頂いて、嫁後がひょっこり帰ってきた」という、お礼のお届けであった。だからもうファンにならなければおれないわけなんだやっぱり。そういうおかげを頂くから。だからおかげを受けておる縁を頂いておる人達だけは、とにかく合楽が日本一という風に良い意味で。
けれども今度はそれを周囲から見ておる人達は、あぁあげなこつほんなこっじゃろか、うーだごつばっかり言うちから、というふうに言うたり、もうあれは金光教じゃない、合楽教だとさえ決め付ける人があるくらい。合楽の一部の人達が、合楽が素晴らしいと言うておるのであって、ならまあ日本中の人が知らんでしょうけれども、金光教は沢山あるが、まあ金光教でいうならば、津々浦々までまあ現在の合楽の事を知らん人はあるまいと思う。そして悪口を言う人褒める人
。褒める人はほん僅かだとこう。例えばここから毎年学院生がまいります。学院の教授の先生方でも、ほんなあそこに永井先生と、この頃聞いたんですけれども、何とか松岡先生だったか。松岡先生という教授が先生がおられる。その先生が今度合楽の教典感話を読まれて、大体が大体その合楽に非常に、まあ好意を持っておられる先生だそうですが、あの授業のときに合楽の先生は、もう天地人一体になっておられる人だと。
もう説かれるところもう先日から皆さんに手紙を読んで、聞いて頂いた様な、まあ言うならこれ以上のほめ言葉はあるまいと言う様な褒め言葉を持って、そのほめ言葉というかそういう風に言うて、その授業にかかられたと言う事が、学院生から通知があっとりました。ですからもうこの上もないように、言うて下さる方があるかと思うと、もうこれより悪かとはなかろうと言う様に、もうとにかく合楽は潰せと言う様なきざしさえあると言う事実なんだ。
そこで私は昨日研修の時に、どこにその合楽が評判が悪いところがあるじゃろかと。これはどうでも一つ原因があるならば、そこを改めていかなきゃいけん。ここが悪いと自分で分かったならば、ただ自分でよか人が言うてくれるならば、それを本気で改めておかげを頂かなければならない。でなければ神様に対しても相すまん。みんなにそれを聞いたんです。ところが結局はまあ合楽ファンばかりですから。悪かとこはなか。だから外から他の教会から、修行に来ておる先生方二、三人にもね。
合楽の悪い評判も随分聞いたことだろうけれども、それを乗越えて合楽に修行に来ておるが、あんた方はどうかと言うてまあ、聞いたけれどもそら聞きよったかも知れんけれども、実際来ているところは悪かとこはなかという風に、段々なってきたわけです。今私はこの現金封筒を、この事をお話ししようと思ったらね。こう言う様な生き方にするから、やはりおかげを頂くのだろうとこう思うのです。今あの中山さんのことです。とにかく、合楽に、五日しか参ったことはない。
けれどももう一生懸命で成り行きを大事にする事。お客さんが来たらいちいち拝みなさいよと言うたら拝みよる。朝晩の大祓信行を欠かしなさんなと言うたら、大祓い本を買うていって、朝晩大祓信行をしよりますと、こう言う様な生き方。そこにいま言う様なおかげを頂いてきたですけれども、昨日この現金封筒に五千五百円はいっとったお金が。でだからははあ五千円がお初穂で、五百円がお賽銭ばいと思うて、こげなふうにかいてあるきん、こらみんなあの何かあの文章だけと思うとったったい。
二枚きとるそしてひょっと、ようとこうやって見たらですね。誰と誰が三千円誰々が五百円誰々が千円という風に、その家族中のものでお供えしとる。だから五百円ち半端が出とるわけですね。だから寝小便でおかげ頂いた孫には、あんたお使い銭を幾らでも良いけん、あのお供えしなさい。長男息子には商売が繁盛しよるけんおかげ頂きなさい。嫁後の話を聞いてみてあんたが帰ってきたつは。
合楽の金光様のおかげばいと言うて、五百円でん、千円でんいいから出しなさいと言うて、出し合うた金が五千五百円あったと言う事なんです。だからあたしは本当に、信心の有難さというものを示現して行くというか、あの、子供に信心を伝えていくと言う事はね、このくらいな心掛けがいるように思うですね。もう、婆しゃまがお供えしたけん、よかよかじゃいかんて。あんたおかげ頂いたっじゃから、おかげの実感をそこにさせたら、それにお礼をすると言う事を教えていくと言う様に。
まあだそれこそ五日しか参ってきとらん人が、ならこう言う事を考えついとるわけです。今日いわゆるなら神に会いたいと思えばと言う所から、御理解十三節を引用してです。向こう倍力の徳を授けるという事はね。そのようにして向こうて行くんです。成り行きを大事にして行くとかね。お参りに一生懸命になるとか、例えばお供え一つでも工夫を凝らして、神様へ向こうていくと言う事は、そう言う事なんです。
その孫がほんなら試験といえば、学校に何かがあるときには、婆しゃま合楽に電話かけて下さいとこういう風に変わってくる。まだ参ってきたことない。そこでです昨日の研修の後に、確かに評判が悪いことは間違いない、それは直接私に言う人はありませんけれどもです。そういうものを感じる。又は第三者の方が、色々言うてくれる。だからその評判の悪いところが、もし本当の事であるとするならば、改めていかなければならんけれども、ある場合は根も葉もない様な事が、まあ吹聴から吹聴されて。
合楽がこげんげなあげんげなと言うて、悪いことの、いわば評判が立ってくる。私はその悪い評判もある意味で神様のゴヒレイだと。神のことをとやこう口端にあげるものもおるけれども、それは神のヒレイだと仰るが、確かに神のヒレイだと言う事ですけれども、そんなら悪う言われて見れば、悪う言われるものが無い様にあるんだと言う事に、自覚に立ってそこに改めていく姿勢を作っていくから、神のヒレイと言う事になるのです。言う奴には言わしとけと。
俺がどこが悪かかと言う所には反省もなからなければ向上もない。それを終わらせて頂いて、神様にご挨拶をしてからま、休ませて頂いたんですけど、そん時にその神様から頂きますことがね。「合楽の信心は偽ものじゃから」と言う事を頂くんです。合楽の信心は偽ものじゃから、評判が悪いんだと。「どこが偽ものじゃろうか」ち。したらあのテレビで、あの何とかという噺家が、あの何か宣伝をしてますよ。
なんでしょうかね洗剤か何かの。偽もののくせに偽ものにご用心ち書いてあるち言うのがありましょうが。にせ二つ本当のものと偽ものとこう持っとる。そしてこれは偽ものだと。それから偽もののくせに、偽ものにご用心ち書いてある。はっははね。合楽の場合は、そう言う様な事ではなかろうかと。偽もののくせに偽ものにご用心と言っておるような事は無いだろうか。合楽の信心が本当のもんだ絶対だ。間違いが無いとなら、私が断言的に言うと言う事はです。
いわば偽ものほんなら神様は、合楽の信心は偽ものとおっしゃるのだから、その偽ものを本当のもののように言っておるような事だろう。そしてその次にこれもあの、コマーシャルでやってますねテレビで。あのあれはラーメンか何かでしょうかね。あのお蝶婦人の何かあれをやって、あのピンカートンかね。というあれのところにあの三木のり平のセリフで、あの「船は出て行く煙は残る。残る煙はシャクの種」という風に申しますですね。それを頂くんです。
合楽の場合一生懸命いうなら、船が出ておるわけです。いわゆる目的に向って本当な事から、本当な事へ向って進んでおるけれども、やはりそこには煙が残りよる。そん煙を見てシャクの種という人達が、合楽を悪く言うのであろうという、次にはそのご理解を頂くのです。それで合楽の信心が偽ものという事はね、これで良いと言う事ではない。これが完璧と言う事ではない。
完璧の域に入ったけれども、まあだ完璧へ向って進んでおる過程なのだ。だからこれは生涯かけてほんならこの船は、油の尽きるまで、まあいうならば進んでいくことだろう。それがほんならこの世を終えてあの世に行くときでもあろうけれどもです。それというものを分かって魂の世界に入っても、より本当の事から本当のことへ、言うなら生神金光大神を目指して進んでいくことであろう。生神金光大神という意味合いにおいて、合楽は偽ものだほんなものじゃないんだとこう言ってる。
生神金光大神に向って進んでおるという事。私はね、倍力の得を授けるとこう。今ええですか、神へ向かうと言う事は、天が神地が神と言う事が分かった。なら神様を知るために、成り行きをいよいよ大事にしていかなければならない。そこになるほど神様だな、親神様だなと言う事が分かれば分かるほど、願いの信心が生き生きと息づいてくる。そこでその息づいたその、生き生きとした心で神様へ向うという手立てをです。なら今中山さんの話も致しました。
向う手立てを色々に工夫しなければならんけれどもです。われ偽ものの自覚に立って、いよいよ本当なものへ本当なものへと前進していかねばならない。ためにはねそれこそ残る煙がシャクの種と言うて、まあ悪口を言う人があるかも知れません。合楽はもう真っ黒い煙ばっかりこう生えてと言うて、言う人があるかも知れんけれども、なら船自体は前へ前へと前進しておるのであると言う事なんです。
前進しておると言う事はです。そのまま神に向かうという姿ではないかとこう思うです。神に向かうそこになら倍力の徳が授けられる。いよいよ御徳を受けての、いうならば安心立命を目指してというか、生神を目指してとかと。いよいよ人間の幸福の条件の全てが足ろうてくるおかげの中にね。それこそ信心生活とは、有難いというものが漲った。有難いに満ちた生活を信心生活というのだ。
その信心生活がです。溢れるようになってくる時にです。向えば向かうほど溢れるようになってくる、その喜びをです示現活動に参画させて貰うと言う様なおかげに、いよいよなって行かなければならんと言う事でございます。今日は神に会おうと思えば、にわの口に出らにゃならん。分からん。けども神を知るためには成り行きを大事にしなければならないと言う事を、十三節を引用しながら聞いて頂いたんですね。
どうぞ。